Tくんに捧ぐ

地元の友達が亡くなったと聞いた。

 

友だちといっても10年以上会っていなかったし、近況はFBで知るくらいだった。そのFBすらズボラな私はこのところログインしていなかった。もっともっと親しくしていた人もたくさんいるだろうし、その人たちと同じくらい悲しい気持ちだとはおこがましくてとても言えない。なのでTくんとの個人的な思い出を書き連ねてみようと思う。

 

Tくんと直接知り合ったのは中学校からだったが、何年か前に実家に帰った折、探し物をしていた時に褪せた写真を見つけた。幼稚園のおそらく運動会の開会式か閉会式で、おとなしそうな二人が朝礼台で並んで、一本のマイクに宣誓の言葉を述べているらしきものだった。おどおどしているものの老け顔のためあまりそうは見えない私と、その横でおどおどしているのが隠せない幼稚園児らしい、目がクリっとした可愛い顔のTくんだった。とても緊張して、Tくんは手で半ズボンのすそをギュッと握っていた。記憶はないし推測だけれど、ともに内気だった2人を先生たちがピックアップして大舞台を踏ませたのではないかなと思う。とはいえクラスも一度も同じになったことはなかったし、お互い名前はおろか存在すらも知らなかったと思う

 

小学生になり、私はわりと強豪の少年野球チームに入った。それなりに懸命に打ち込んだのだが、チーム創立以来初の無冠に終わりそうな不名誉な学年だった。監督やコーチもピリピリしていたし、遂にはキャプテン・副キャプテンを大会ごとにすげ替える、政権末期の内閣改造を思わせるような迷走をはじめた。そんな中で私は薄々自分に野球センスがないことに気がついていた。かろうじてレギュラーではあったものの下位打線だったし、試合終盤で代打や代走を送られることも珍しくなかった。いわゆる「ライパチ」と言われるライト・8番という当時の野球少年における最大の屈辱の打順とポジションも経験した。悔しい思いもしたがどこかでまあこんなものかと思う自分もいて、その「まあこんなものか」という逃げの姿勢がゆえ一向に野球が上達しなかった気がする

 

ぼちぼち引退が近づき、最後の大会かそのひとつ前の大会か忘れてしまったが、交代制のキャプテンがいよいよ私のところに来てしまった。授業参観日に日直とか、バラエティで言えばパンッパンに膨らんだ今にも破裂しそうな風船が回ってきたような心境だった。あまり大きくない地区大会で、トーナメントを4回くらい勝てば優勝だった。さすがにこれは行けるんじゃねえか、いやこいつらだからな…というようなことを思うだけではなくハッキリ口にする監督やコーチが味方なのか敵なのか判らなかったが、なんとか順当に勝ちを重ねて決勝まで駒を進めた

 

決勝の相手は同じ地区内の古豪のチームだった。強いしヤジも代々酷くて当たりたくねえなあと思っていた。おまけに決勝戦の会場も彼らの本拠地の小学校だった。試合は競ったまま進み、終盤で私に打順がまわってきた。相手のピッチャーはあまり球速はないがコントロールが抜群に良く、前の2打席は凡打に抑えられていた。大変ベタで恐縮だが、ドクンドクンと自分の鼓動が聞こえ、顔が紅潮するのがわかった。投げられたボールを思い切り振りぬくと一瞬だけバットが重くなり、走りながら目で追うとセンターを少し越えるのが見えた。自分の決勝打で優勝が決まり、キャプテンとしてトロフィーを受け取った。まったく出来過ぎた結末だった。これも後から知ったことだけど、この時の相手チームのピッチャーがTくんだった。そして体だけは大きかった私をTくんがゴジラとあだ名していたらしい

 

後日、決勝打を打った時の私のスイング中の写真を見たコーチが私を呼びつけた。褒められるものとばかり思ってニコニコ出向いて行ったのだが、開口一番「おい。見ろ、酷いアッパースイングだ」とカマされ、そのまま10分ほど説教が続いた。私は野球を続けるのを止めようと決意した

 

中学に入り、その頃はまだ幼稚園でも少年野球でも邂逅があったとは互いに気がついていなかったが、私は野球部のTくんと同じクラスになり間もなく仲が良くなった。Tくんは剽軽で人気者だった。珍しく野球部の練習がなかったある日、Tくんに遊ぼうと誘われて自転車で彼の住む家の方まで出かけた。待ち合わせ場所に近づいてT君が視界に入ると、彼の着ているTシャツが得体の知れない雰囲気を放っていることに気がついた。そばまで寄って確かめると白いTシャツには無数の絵や文字や数字が、明らかに手書きのサインペンで描かれていた。耳なし芳一を思わせる禍々しさに私は圧倒され「Tくんそれ…」と口を開くのがやっとだったが、Tくんは「うん、自分で書いた!」と答えながらゲラゲラ笑っていた。なんてアナーキーな人なんだと思った。自転車で並走するのが少しだけ恥ずかしかった

 

Tくんの家に着いて彼の部屋で喋っていると、突然「ちょっと待っててね」と中座した。ウンコでもしに行ったのかなと思ったが、ほどなく戻ってきたTくんの両方の手にそれぞれブラジャーが握られていた。「どっちがいい?」「え、なに?」「どっちがいい?これ、姉ちゃんの」と言い放った。Tくんにはとても美人なお姉さんがいて、校内でもちょっとした有名人だった。それを知っていた私はドキドキしたものの、「ありがとう、いただくね!」というほどまだ完成されていなかったので、「だ、だいじょうぶ。いらない」と返すのが精いっぱいだった。Tくんはそっか、というとブラジャーをその辺にポイと投げた

 少しして隣の部屋に人の気配がして、すぐにTくんの部屋のドアがバタン!と開かれ、お姉さんが鬼の形相でTくんの頭をひっぱたいて、落ちているブラジャーを拾い上げていった。一連の出来事に面食らいながらTくんに尋ねると、ふるまいブラをするのは初めてではなかったらしく、見知らぬ靴が玄関にあった時点でかなり警戒されていたのだろう

 

それからは部活も違ったのでつかず離れず過ごしていたが、彼の周りにはいつも人だかりがあったし、その突拍子のなさは常に誰かを魅了していたように思う。

 

中学卒業後からしばらくは会うこともなかったが、20代の頃にはまた別の友人を通して再会し、何度か酒を飲んだりコンパみたいな飲み会に呼んでくれたりした。その頃のTくんは正真正銘チャラチャラしていたが女の子に優しかったし、間違いなくモテていた。手書きのTシャツはさすがにもう着ていなかったけれどお洒落だったし、パーマもタトゥーもストリートブランドもよく似合っていた。とはいえ手書きのTシャツが一番ストリートを体現していた気もするけれど

 

 

 

遠く離れた場所で彼がお店を開いていて、繁盛していることは人づてに聞いて知っていた。いつか旅行にいって突然訪問して驚かせたいな、その時はやめているお酒を少しだけ飲んでしまおうかなどとぼんやり考えていた。彼が病魔に襲われていたこと、奥様と協力して懸命に戦っていたことを知ったのは、すでに亡くなってしまった後だった。

 

 

いとも簡単に野球から逃げ出した私と違って彼は中学でも野球を頑張っていたし、突拍子のなさだけではなく、粘り強さも持っていたのだろうと思う。決勝で戦ったあの日も、Tくんは一人で最初から最後まで投げぬいて完投していた。長い間しんどかったのによく頑張ったね、お疲れ様でしたと声をかけたい。

 

見るからに内気な園児がエースピッチャーになったり、掴んでいた半ズボンのすそがお姉さんのブラジャーになったり、手書きのTシャツがストリートブランドになったりした、その変遷の過程を私がそばでうかがい知ることはできなかった。だが彼のお店や彼自身が、誰からも愛される存在であることは容易に想像がつく。

 

月並みな文言になってしまうが、Tくんを愛する人たちのTくんを思う気持ちは決して消えることがないだろうし、それはTくんが消えないことを意味すると思う。

 

 

Tくん、どうもありがとう。話した時はいつも楽しかった。